現長崎総合科学大学附属高等学校サッカー部の小嶺忠敏監督(76)が、2022年1月7日(金)になくなったことが明らかになりました。
小嶺忠敏監督は、選手権優勝を6回も導き、戦後最多ということでも話題になっています!
そんな小嶺忠敏監督を支えた「妻(嫁)や息子・娘の家族構成は?」などが気になるのではないでしょうか?
また、戦後最多となる選手権6回も優勝へ導いた小嶺忠敏監督の経歴も気になるところです。
そこで今回は、
- 小嶺忠敏の妻(嫁)や息子・娘の家族構成は?
- 小嶺忠敏が選手権優勝6回も導いた監督の経歴は?
についてお伝えしていこうと思います!
小嶺忠敏の妻(嫁)や息子・娘の家族構成は?
小嶺忠敏監督の家族構成は、妻(嫁)と娘3人の5人家族になります!
小嶺忠敏監督について調べると、「息子」とでてきますが、息子さんはいないようで、子供は娘さんが3人いるとのことです。
妻(嫁)の名前は『厚子』さんといいます。
2017年7月21日の産経新聞の記事で以下のように報じられていました。
《指導者としての人生を、妻の厚子さん(67)ら家族が支えた》
引用元:産経新聞
小嶺忠敏監督の妻(嫁)は、2017年7月21日の時点で年齢は67歳と報じられていますので、現在の年齢は71歳か72歳と思われます。
小嶺忠敏監督の妻(嫁)は、毎晩、小嶺忠敏監督の枕元に紙と鉛筆を置いていたそうです。
私は夜中でもパッと目が覚めると、「明日のスターティングメンバーはこう修正しよう」「相手がこう動けば、うちはこの選手を起用する」とか、思い付くままにメモを走らせるのです。
引用元:産経新聞
小嶺忠敏監督がいつどこでも思いついたことをメモできるようにと、気を利かせて紙と鉛筆を置いていたんですね。
このような小さな気遣いが、小嶺忠敏監督の大きな支えとなっていたんでしょうね。
また、小嶺忠敏監督の妻(嫁)は、寮母としても監督や選手を支えていたそうです。
女房は、下宿生の「母親」としても、寮を切り盛りしてくれました。島原商の監督時代、自宅の2階に選手を住まわせたのです。
国見が何度か日本一になって、長崎県に専属の寮を作ってもらいました。
引用元:産経新聞
小嶺忠敏監督の妻(嫁)は、義理の母親と自宅(南島原)から国見まで片道30キロもあるところを、毎日ご飯を作りに行っていたそうです。
お弁当や夕食、そして翌朝の準備までして、多い時で50人分も作って家に帰っていました。
このようにして、多くの人に支えられ、平成12年、13年と全国高校サッカー選手件で連覇し、国見の復活を果たせたようですね。
しかし、小嶺忠敏監督は家ではサッカーの話をすることは、ほとんどなかったといいます。
女房がテレビで見て「あの子、寮ではボーッとしているけれど、レギュラーなの?」と聞かれることもありましたが、こちらは「うん」とうなずくだけ。「こいつは、こうだ、ああだ」と言ったことは、一度もありません。
引用元:産経新聞
小嶺忠敏監督は、家族と過ごす時間はほとんどなく、忙しすぎてゆっくり座ってご飯をたべることができないほどでした。
そのため、娘さん3人をお風呂に入れることも出来なかったようです。
小嶺忠敏監督は、娘さん3人の運動会や授業参観にもいったことがないそうです。
また、平日も週末もなく、お正月はずっと高校サッカー選手権大会でした。
小嶺忠敏監督は娘さん3人に対して、以下のように話していました。
「サッカーが、おれの生きがいなんだ。お前たちには申し訳ない」と思っています。ただ、困難を乗り越えようとする親の姿を見せることは、できたんじゃないか。それが「最高の教育」じゃないかと考えています。
引用元:産経新聞
きっと娘さん3人は、小嶺忠敏監督の頑張ってきた姿を誇りに思っているのではないでしょうか。
小嶺忠敏が選手権優勝6回も導いた監督の経歴は?
小嶺忠敏監督は、長崎県南高来郡堂崎村(現在の南島原市)出身です。
父親は生前に太平洋戦争で戦死していました。
そのため、母子家庭で育ち農業で生計を立てていたそうです。
小嶺忠敏監督は7人兄弟だったため、当時は大変だったことが想像できますね。
小嶺忠敏監督は、中学時代はバレーボール部に所属していました。
ちなみに中学校は『南島原市立有家中学校』です。
高校は、『長崎県立島原商業高校』に入学し、サッカー部に所属していました。
高校3年生の時には主将を務め、九州選抜チームにも選出されました。
高校卒業後は、大阪商業大学からスカウトされたため、大阪商業大学に進学を決めサッカー部に所属します。
大学時代は、関西学生サッカーリーグ3部だったチームを、大学3年時に1部へ引き上げる原動力となったそうです。
大学卒業後は、サッカー部を持つ企業へ就職が内定していました。
しかし、母校の『長崎県立島原商業高校』時代のコーチから誘いを受け教員を目指しました。
そして、長崎県の教員採用試験に合格し、地方公務員となります。
その後は、以下の経歴になります。
年 | 経歴 |
1968年 | 長崎県立島原商業高校へ就任。商業科教諭およびサッカー部監督に就任 |
1977年 | インターハイで長崎県勢として初優勝 |
1984年 | 長崎県立国見高校 社会科教諭として赴任。
サッカー部を全国高校サッカー選手権で戦後最多の6回の優勝に導く |
1996年 | JAF公認S級コーチ(Sライセンス)取得 |
1997年~1999年度 | 教頭 就任 |
2000年~2005年度 | 校長 就任 |
2006年3月 | 長崎県立国見高校 定年退職 |
長崎県の公立高校教員には、離島の学校に一度は赴任しなくてはいけない規定があるそうです。
しかし、教育委員会が小嶺忠敏監督の県外流出を恐れた為、特例として離島に赴任させず、「1997年~1999年度は教頭」「2000年~2005年度は校長」に就任させたそうです。
また、校長に就任すると、全国高等学校体育連盟の規定により、監督を退くことになります。
しかし、監督に就任した教諭が、サッカー経験&指導歴がなかったため、小嶺忠敏監督が「総監督」として実質的な指揮をとっていたようです。
2006年3月に小嶺忠敏監督は、国見高校を定年退職していますが、総監督職は、2007年1月9日まで継続していました。
定年退職後は、
- 長崎県サッカー協会の会長
- 長崎県教育委員会参与
- 特定非営利活動法人「V・ファーレン長崎スポーツコミュニティ」理事長
なども務めていました。
2007年以降の経歴は、以下の表になります。
年 | 経歴 |
2007年1月 | 第21回参議院議員通常選挙 長崎県選挙区より自民党公認で立候補を表明 |
2007年7月 | 参議院選挙で民主党公認の大久保潔重に敗れる |
2007年11月 | 長崎総合科学大学情報学部情報経営学科特任教授 就任 |
長崎総合科学大学附属高等学校サッカー部総監督 就任 | |
2011年1月 | 長崎総合科学大学附属高等学校サッカー部の指導も開始 |
2015年9月 | 長崎総合科学大学サッカー部総監督と同附属高等学校サッカー部監督 就任 |
2017年3月 | 「一般社団法人V.V.NAGASAKIスポーツクラブ」代表理事 就任 |
小嶺忠敏監督は、亡くなる数年前から肝臓などの内臓を患い闘病を続けていたそうです。
2021年の第100回全国高校サッカー選手権でも、初戦から体調不良でベンチ入りできていなかったとのこと。
【訃報】国見高元監督・小嶺忠敏さん死去 76歳https://t.co/vcdnO4eDzp
選手の個性を伸ばす指導で、多くの日本代表選手を輩出。全国高校サッカー選手権で長崎県立国見高を6度の優勝に導き、現在は長崎総合科学大付高の監督を務めていた。関係者によると、昨年12月に体調が悪化していた。 pic.twitter.com/aqgBXqJWAL
— ライブドアニュース (@livedoornews) January 7, 2022
以前に比べるとだいぶ痩せていますので、体調がよくなかったことがわかりますね。
小嶺忠敏の主な実績
小嶺忠敏の島原商業時代
年 | 実績(戦績) |
1974年 | 全国高校サッカー選手権初出場 |
1975年~1983年度 | 全国高校サッカー選手権10大会連続出場(最高成績 1979年度のベスト8) |
1984年度 | 全国優勝 |
1977年 | インターハイ優勝 |
1977年のインターハイ優勝のメンバーには、山田耕介(前橋育英高校監督)と小林伸二達がいました。
1984年度の全国優勝は、小嶺忠敏監督が2年生まで指導した選手達による結果とのこと。
小嶺忠敏の国見高校時代
<インターハイ>
年度 | 実績(結果) |
1986年 | 優勝 ① |
1987年 | 準優勝 |
1992年 | 3位 |
1993年 | 優勝 ② |
1997年 | 3位 |
2000年 | 優勝 ③ |
2002年 | 準優勝 |
2003年 | 優勝 ④ |
2004年 | 優勝 ⑤・連覇 |
<全日本ユース選手権>
年度 | 実績(結果) |
1989年 | 準優勝 プレ大会 |
1990年 | 3位 |
1991年 | 準優勝 |
1996年 | 3位 |
2001年 | 優勝 ① |
2002年 | 優勝 ②・連覇 |
<全国高校サッカー選手権>
年度 | 実績(結果) |
1986年 | 準優勝 初出場 |
1987年 | 優勝 ① |
1989年 | 3位 |
1990年 | 優勝 ② |
1991年 | 3位 |
1992年 | 優勝 ③ |
1993年 | 準優勝 |
2000年 | 優勝 ④ |
2001年 | 優勝 ⑤・連覇 |
2002年 | 準優勝 |
2003年 | 優勝 ⑥ |
2004年 | 3位 |
小嶺忠敏監督は、上記の実績の他にも『長崎県民栄誉賞』を受賞(1988年)しています。
また、2000年には『朝日スポーツ賞』も受賞されました。
その他、
- 1993年:U-17世界選手権(日本開催) ベスト8進出
- 2002年:天皇杯 第2種チームとして初の3回戦進出
小嶺忠敏監督は様々なとても素晴らしい実績をもっていることがわかりましたね。
まとめ
今回は「小嶺忠敏 の妻(嫁)や息子・娘の家族構成は?選手権優勝6回も導いた監督の経歴は?」についてお伝えしてきましたが、いかがだったでしょうか?
小嶺忠敏監督の家族構成は、妻(嫁)と娘3人の5人家族ということがわかりましたね。
息子さんについては、情報がなかったため娘さんしかいないと思われます。
小嶺忠敏監督も以前のインタビューで、娘3人がいることだけを話されていました。
小嶺忠敏監督の経歴はほんと素晴らしく、選手権優勝6回だけでなく、ほかにも多くの優勝に導いていることがわかりましたね。
小嶺忠敏監督の妻(嫁)や息子・娘の家族構成や、選手権優勝6回も導いた小嶺忠敏監督の経歴や実績について、参考にしていただけると嬉しいです。
それでは、今回はここまでとさせて頂きます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
コメント